今回は”真実”についてお話をします。
こう書くと胡散臭くなるのは何でなんでしょうね…
「”真実”はいつも一つ」
でお馴染みの探偵漫画では、毎度主人公が事件(主に殺人)の真実を明るみにし解決に導いています。
真実を明るみにする=解決
何か事件が起きたときにそれを解決へと導くのは、真実を明らかにすることであり、世の中基本的に真実を基に物事が動いています。
又は、動いていると僕らは思い込んでいるわけです。
じゃあそもそも、真実って何なんですか?
”事実”って言葉と何が違うんですか?
”真実”って当たり前に使っている言葉だけど、よく考えると理解が曖昧だったりします。
そんな真実について語って行きたいと思うので、最後まで、どうか最後まで目を凝らして読んでくださいお願いします
目次
真実とは
wikipedia(真実)より引用
嘘や偽りでない、本当のこと。まこと。真実は事実と同様で、皆が一致する一つの場合もあり、人それぞれに複数存在する場合もあるが、一般的には、他者との関係性を前提に社会で合意して共有できる皆が一致する、より公的で社会性を有する事柄を真実と言う。
「皆が一致する一つの場合もあり、人それぞれに複数存在する場合もある」
真実はいつも一つじゃないのかよ!
最初見たとき思ったことはそれでした。
嘘偽りのない本当の事なのに、人によりそれが異なる場合があるってどういうことなんでしょうか?
ある程度の規範や一般論の範囲に収まる、要は公的なものであるとは言っているけど、それでも人それぞれと言っているように見えます。
そこで、今度は”事実”という言葉について見てみたいと思います。
wikipedia(事実)より引用
ことの真実。真実のことがら。本当にあったことがら。
ここから読み取るに、真実という枠組みの中に事実が含まれる感じになりそうです。
また真実とは違い、客観的に出来事や状況を指す言葉であり、人によって異なるという事は起こり得なそうです。
wikipedia(真実)より続きを引用。
人間は社会を構成する前提がある社会的動物なのであり、真実は真実でもある事実の提示や自明な範囲で皆で一致し、共有されるべき事が求められる対象であるが、私的かつ個人的な範囲では他者と一致していなくても、その人物の主観という範囲での合意として真実と言えるが、人間が社会的動物として生きると言う前提がある以上、その趣での真実は他者との社会的な関係性の中で個人的な主観が許されない場合は真実とはならず、相手から見れば嘘ともなりえる危険性を孕んでいる。
「人間は社会を構成する前提がある社会的動物なのであり、真実は真実でもある事実の提示や自明な範囲で皆で一致し、共有されるべき事が求められる対象である」
要は事実というベースがあり、その上で一般論や原理原則に当てはめた思考のもと、社会の大勢に共有されるものが真実となるわけです。
しかし、
「私的かつ個人的な範囲では他者と一致していなくても、その人物の主観という範囲での合意として真実と言える」
つまり本人が真実と思っていれば、紛れもなくその人にとっては真実となる場合もあるようです。
公的な真実と私的な真実があると言えそうですね。
ただし、
「他者との社会的な関係性の中で個人的な主観が許されない場合は真実とはならず、相手から見れば嘘ともなりえる危険性を孕んでいる。」
公的な真実と私的な真実を混同すると、互いに不信感を招く事になり得るリスクがあります。
真実には”解釈”が含まれる
分かり安い記事があったので一部引用
東洋経済ONLINE なんとなく使う「事実と真実」の正しい使い分けより引用
「真実」は人の数だけある!?
アン:実は……ってよく言うよね。だから、本当のところは、みたいな。
宮本:そうです。真実も事実も、うそ偽りのないことを指します。事実とは実際に起こったうそ偽りのない事柄のこと。でも、真実は事実に対する偽りのない解釈のことなのです。
アン:事実は誰が見ても変わらないけれど、真実は人によって変わるということ?
まあ、ここに書いてあることが僕の言いたいことです。
ここでまず注目したいのが、”事実”という言葉についてです。
実際に起こった嘘偽りのない事なので、誰が観測しても同じになること、客観性が重要になってきて、ここが真実と大きく違うところです。
次に”真実”について、事実を嘘偽りなく"解釈"したもの、となります。
”事実”というベースがあり、それを原理原則に基づいて解釈するというのが一般的に正しいですが、当然解釈には主観が混じるので、人によって差異が生まれます。
公的な真実ならば、差異はある程度共通認識の範疇に収まりますが、私的な真実の場合は皆各々好き勝手に解釈するため、真実同士に乖離が生まれます。
厄介なのが、真実という言葉には"嘘偽りがない"というニュアンスが含まれるため、例えそれが私的な真実であっても絶対的に正しいと盲信してしまう場合があり、他者の真実と衝突してしまうことがあります。
真実=解釈という"事実"を忘れない事が重要だと思います。
演繹法
さて、真実にたどり着く為に事実を適切に解釈する必要があるわけですが、その思考法の一つに演繹法というものがあります。
wikipedia(演繹)より引用
演繹(えんえき、英: deduction)は、一般的・普遍的な前提から、より個別的・特殊的な結論を得る論理的推論の方法である。
帰納に於ける前提と結論の導出関係が「蓋然的」に正しいとされるのみであるのに対し、演繹の導出関係は、その前提を認めるなら、「絶対的」「必然的」に正しい。したがって理論上は、前提が間違っていたり適切でない前提が用いられたりした場合には、誤った結論が導き出されることになる。近代では、演繹法とは記号論理学によって記述できる論法の事を指す。
今回は帰納法については省きます。
これはどういうことかと言うと、事象や状況等の事実を一般論や体系的な理論に照らし合わせて、必然的な結論を得る論理的推論法の一つになります。
少し分かりにくいので、具体例を示そうと思います。
一般論:太陽が東に見える時は、午前だ。
状況:現在、太陽は東に見える。
↓これらから推測
結論:現在、午前である。
は?当たり前だろ!
と思うかもしれませんが、これが大まかに演繹法です。
大前提として一般論があり、小前提として現在の状況(事実)があり、これらから推論が導き出されます。
よく言う三段論法みたいなもので、AならばB、BならばC、よってAならばC、みたいなものです。
事実から物事を解釈し、適切な真実を導く1つの方法として大変有効で、前提が合っていれば結論は必然的なものになります。
しかし、各々主観というものは完全に除外できるわけでは無いため、午前11時と解釈するか、早朝と解釈するか、真実に差異が出ます。
その精度を上げるために、現在の状況をより明確にする必要があります。
さっきの例で考えると、現在の時期と、観測地点と、棒を垂直に立てた時に出来る影の角度を情報を加えると、おおよその時刻まで推測できます。
ここまで来れば真実に大きな差異は出ませんが、しかし推測される時刻が午前5時だった場合、それを"早朝"と言うか"夜明け"と言うか、細かい差異が発生するため、結局真実は一つとならないわけです。
しかし、こうやって推論を導いていけば公的な真実と言えるものになってくると思います。
ちなみにですが、
一般論:太陽が東に見える時は、午前だ。
状況:現在、午前だ。
↓これらから推測
仮説:現在、太陽は東に見えるかもしれない。
このように、結論から状況を推測し仮説を導く事を”アブダクション”と言いますが、使い方を間違えると後述する後件肯定という誤謬に陥るので注意が必要です。
演繹法の注意点
演繹法は正しく使用しないと、誤った結論に行き着きます。
それらの注意点をいくつか紹介します。
・一般論(大前提)の妥当性
まずここが間違っていたらその後に続く論理が全て破綻します。
しかし、一般論なんてある日突然反証が見つかり覆る可能性がある事も忘れてはいけません。(天動説とか)
もしそれが間違っていたとしても、すぐに対応出来るよう臨機応変な心構えが必要になります。
また、”早まった一般化”(仮定の前提化)などの誤謬が含まれていないかなどの注意も必要です。
・事実(小前提)の客観性
小前提の部分に当たる事実、現状等の情報などは客観性が重要になります。
さっきの例で考えてみると
一般論:太陽が東に見える時は、午前だ。
状況:現在、太陽は右側に見える
↓これらから推測
結論:は?
確かに観測者本人にとっては事実なのかもしれないですが、右という情報は観測者がどの方向を向いているか判明しないと客観的には役に立たないので、この事実は客観性に欠けると言えます。
これはかなり分かりやすい例ですが、もっと稀有なもので例えると、信号機を観測した人が色覚異常を持っていた場合、一般の人とは見え方が異なっている可能性があります。
例えとして適切か分かりませんが、事実や情報の客観性は注意深く検証しないと、結論を誤る可能性があるので気をつけなければなりません。
・前件否定、後件肯定
これは、論証上の誤り所謂誤謬にあたります。
まず一般論を分解すると、”前件”と”後件”に分けられます。
再びさっきの例で言うと
一般論:太陽が東に見える時は、午前だ。
この場合の前件は、「太陽が東に見える」
後件は、「午前」
となります。
AならばBの「A」が前件となり、「B」が後件となります。
ここで注意しないといけないのは、AならばBが成り立っても、BならばAは成り立たないという事です。
これを間違えると、前件否定、後件肯定に繋がります。
一般論:太陽が東に見える時は、午前だ。
状況:現在、太陽は東に見えない。
↓これらから推測
結論:現在、午前ではない。
これが前件否定になります。
「太陽が東に見え"ない"」というように前件が否定されてるので、前件否定となります。
これの何がおかしいかというと、太陽が東に見えないからと言って午前では無いとは限らないからです。
深夜1時だって午前です。
厳密に言えば、観測地点から北極と南極を通る経線で地球を半分こしたと考えたとき、現在が午前なら太陽は観測地点から東にあると言えますが、観測出来るか出来ないかの話なら日が昇っていないと出来ないので、前件否定は成り立ちません。
次に後件肯定を見ていきます。
一般論:太陽が東に見える時は、午前だ。
状況:現在、午前だ。
↓これらから推測
結論:現在、太陽は東に見える。
これが後件肯定ですが、これも誤謬となります。
理由はさっきと同じで、午前だからって太陽が東に見えるとは限らないからです。
あくまで、仮説の一つとして扱うなら”アブダクション”として成立しますが、言い切ってしまうと誤謬になります。
前件否定、後件肯定が成り立つのは前件と後件を入れ替えても成立する場合のみです。
そうでないなら成り立つのは、
一般論:太陽が東に見える時は、午前だ。
状況:現在、太陽は東に見える。
↓これらから推測
結論:現在、午前である。
のような前件肯定と、
一般論:太陽が東に見える時は、午前だ。
状況:現在、午前ではない。
↓これらから推測
結論:現在、太陽は東に見えない。
のような後件否定のみとなります。
事実と解釈の分離
ここまで真実について考えてきたわけですが、物事を解釈するときは必ず事実という客観的で不変の情報をベースにする必要があります。
しかし、世にあふれている情報には事実と解釈を混同しているもの、事実に見せかけた解釈などのミスリードがたくさんあります。
いくつか例を挙げつつ考えていきたいと思います。
例1
”男が女性に対してセクハラをしている”
これが、この写真から読み取れる事実となります。
はい、嘘です。
”セクハラをしている”は解釈となります。
正しくは、
”男と思わしき人物が、女性と思われる人物の太ももを手で触っている”
が事実です。
これを、セクハラとみるか、痴漢とみるか、恋人同士の愛撫と見るかは人それぞれの解釈となってしまうのです。
こうして事実というものを見ると、身もふたもない無味乾燥としたものということがわかります。
また、”男と思われる人物”というように曖昧な表現を使いましたが、実際写真だけでは男性か女性かは正確に判別出来ないというのが事実になります。
”分からない”や”曖昧である”というのも事実となることを認識しておく必要があります。
さて、もう一つ例を見ていきたいと思います。
例2
A氏は半年前、夜の住宅街を歩いていたBさんを後ろから包丁で刺して死に至らしめた殺人犯だ。裁判では重い刑が言い渡されるだろう。
さてこの中から事実を拾っていく。
・A氏が半年前、夜の住宅街を歩いていたBさんを後ろから包丁で刺した。
・B氏は死亡
・裁判はこれから執り行われる。
大まかにこんなところかな、と思います。
疑問に思った人もいるかもしれませんが、”A氏は殺人犯だ”というのは正確には解釈にあたります。
なぜなら、裁判はこれから行われるのであり、罪状が殺人で確定していないからです。
殺人は、”殺意の有無”という意図や解釈が一つのファクターとなるため、殺意が認められなかった場合、傷害致死罪となる可能性もあるわけです。
状況から考えて殺人だろ!と言う人もいるかもしれませんが、犯人は
「足を刺して動けなくした後、金品を盗むつもりだったのが、手元が狂った」
と証言するかもしれません。
ふざけんな!と感情的に言いたくなるところですが、実際問題その証言を肯定・否定する根拠はありませんし、そういった意図や解釈については真の意味で検証なんて出来ないため、結局は真実の類となってしまうのです。
仮に、裁判で殺人であると判断されても、
”殺人との判決が下った”
という事実があるのみで、実際に殺人かどうかは永遠にわかりません。
こうしてみてみると、世の中には事実に見せかけた解釈が数多く転がっていることが分かります。
なので過信も鵜呑みもせず、情報に対してはより一歩引いた目線で向き合う必要があります。
真実なんて分からない
はい、またいつものオチです。
だって仕方ないじゃないですか・・・
解釈なんて人それぞれだし、そこに対して嘘偽りがないかなんて他人にはわかる訳ないんですから・・・
それに演繹法の話で言えば、一般論なんてある日突然塗り替えられる可能性があるものもあるわけですし、事実だって観測者のフィルターを通す訳ですから100%客観的なものなんて存在し得ないですし・・・
だからこそここでは、”真実”なんて永遠に分かりっこないという”事実”を認識してもらえれば十分だと思います。
しかし、そうなると何も信じられるものなんてないという失望からニヒルな態度に陥り、結果真実というものを蔑ろにしてしまうリスクがあります。
蛇足となりますが、そうした真実が軽んじられてしまう問題について最後に考えてみたいと思います。
ポスト真実
世論形成において、客観的な事実より、虚偽であっても個人の感情に訴えるものの方が強い影響力を持つ状況。事実を軽視する社会。
近年、SNSの普及などにより客観的な事実や論理に基づいた解釈より、共感できる、感情が揺さぶられる刺激的な情報が重要視、事実などの客観的な情報が軽視されがちと個人的に感じます。
炎上記事などが出回ると、その情報の信憑性も精査せず脊髄反射的に拡散、すぐさま「許せない」などの感情論が蔓延し、あっという間に燃え広がるみたいな光景はよく目にするのでは無いでしょうか?
もっと酷い場合は、記事の内容すらまともに読まず歪曲されたタイトルのみで判断し拡散→炎上、なども見受けられます。
SNSなどで重視されるのは共感で、周りの空気を読み素早く同調する事が1つの処世術の様になっています。
反対に、反証の提示や少し疑問を呈しただけで、袋叩きに合うようなことも多発しています。
事実や論理というものが軽視どころか、唱えること自体がおかしいみたいな空気が出来上がり、"事実が風聞に負ける"、"安全より安心を"みたいなものが横行するのです。
これがSNS上の小さなコミュニティ内だけの話ならまだいいですが、SNSは今や世論形成に大きな影響を与え、その結果政治までもが動いしてしまうこともあります。
こんな社会が出来つつあり、それを言い表したものが"ポスト真実"となります。
実例としては、イギリスのEU離脱などがそれにあたると言われています。
離脱派は、「イギリスはEUに週当たり3億5千ポンド(約440円億円、当時)を拠出している」と主張し、それを信じた国民の多くが離脱に対し投票しました。
しかし、実際には「拠出金からの払い戻しが相当額ある」という事実を無視していたため、事実に基づいた世論とは言い難く、結果離脱となりましたが後から事実が分かり再投票を求める署名運動が起こったそうです。
この時からポスト真実と言う言葉が注目され始めました。
こうして真実を軽視し刺激ばかりを求める消費者が多くいることで、そういった情報に需要が生まれ偏向やフェイクを垂れ流すキュレーションメディアの乱立、そしてそこに広告を打つクライアント・・・
こういった閉じたwin-winな構図が出来上がり、よりポスト真実が強化されていると感じます。
真実を追求することはとてつもなく労力の掛かることで、人によって様々な真実が存在する為真実そのものが飽和する、更に真実なんて追求しても結局分からない・・・
こう考えると真実そのものがバカらしく感じてしまうかもしれません。
その結果、「楽しければそれでいい」「気持ちよければ真実なんてどうでもいい」という考えに陥ってしまう気持ちも分かります。
ですがその考えの結果政治まで動いたら、将来社会は正当に維持されるのか?その時、自分や自分の大切な人間の生活または命は保証されるのか?
こうして考えると、どうでもいいでは済まない事が多くあるのに気付くと思います。
勿論、真実に目覚めて、目覚めた市民として行動しろという胡散臭い話ではありません。
安直に真実を導く、あるいは安直に真実を否定し思考停止に陥るのは最も愚かしい、という事が言いたいのです。
「楽しければそれでいい」「気持ちよければ真実なんてどうでもいい」
そんな考えは、考えることから逃げたいだけのただの思考停止と僕は思います。
真実を見抜くことじゃなくて、真実を見抜こうと"思考を止めない"姿勢が最も重要なのです。
閲覧者なんてほぼいないブログで偉そうにつらつらと書き連ねてみましたが、もしこれを読んだ人がいてその人にとっての考えるきっかけになれば幸いと思います。