あけましておめでとうございます🎍
という訳で新年一発目はアブダクションについて色々と語って行こうと思います。
以前書いたこちらの記事
この中で演繹法とアブダクションについて触れましたが、もう少し深掘をした上で特に使い方を間違えた場合の問題について触れていこうと思います。
どうか、最後まで読んでって下さい。
目次
演繹法とアブダクション
まずは”演繹法”から
wikipedia(演繹)より引用
演繹(えんえき、英: deduction)は、一般的・普遍的な前提から、より個別的・特殊的な結論を得る論理的推論の方法である。
帰納に於ける前提と結論の導出関係が「蓋然的」に正しいとされるのみであるのに対し、演繹の導出関係は、その前提を認めるなら、「絶対的」「必然的」に正しい。したがって理論上は、前提が間違っていたり適切でない前提が用いられたりした場合には、誤った結論が導き出されることになる。近代では、演繹法とは記号論理学によって記述できる論法の事を指す。
引用終了
以前解説したんで、詳細は省きますが要するに、
"A"ならば"B"、"B"ならば"C"、従って"A"ならば"C"
みたいなやつです。
次に”アブダクション”について
アブダクション、リトロダクション(古代ギリシア語: ἀπαγωγή、英: abduction, retroduction)とは、個別の事象を最も適切に説明しうる仮説を導出する論理的推論。仮説形成や仮説的推論などと訳されている。
引用終了
「仮説を導出する論理的推論」とある通り、アブダクションによって導かれた論理はあくまで仮説であり、正しくない可能性もあるわけです。
形式的には後件肯定という論証上の誤り・誤謬と同じですが、あくまで仮説として論じるなら有効となります。
と言っても具体的にはどういうことなのかわかりにくいと思うので、再度wikiから引用
wikipedia(アブダクション、論理的推論のページ)より引用
アブダクションは、結論 に規則「 ならば である」を当てはめて仮定 を推論する。帰納が仮定と結論から規則を推論するのに対し、アブダクションは結論と規則から仮定を推論する。アブダクションは、推論した仮定が真であることを保証しない。アブダクションそれ自体としては、形式的には論理学でいう後件肯定に等しい。このようにアブダクティヴな推論はそこで提起される仮定/原因が疑わしいので、「前後即因果の誤謬」という、時間の前後関係を因果関係と混同した虚偽の論法に似ている。
引用終了
どういうことかというと、起こった事象や結果に対し規則や一般論を当てはめ、原因や関係する事実を導こうとする推論である、ということです。
演繹法の場合
一般論:太陽が東に見える時は、午前だ。
状況:現在、太陽は東に見える。
↓これらから推測
結論:現在、午前である。
このようにして、事実に対し一般論に当てはめることによって必然的な結論を導き出すのに対し、アブダクションでは
一般論:太陽が東に見える時は、午前だ。
結論:現在、午前である。
↓これらから推測
推測:現在、太陽は東に見える。
このように、結論から状況を推測するものになっています。
前件否定、後件肯定
この辺は以前書きましたが、ここの説明が抜けるとアブダクションについて分かりにくいので、もう一回解説します。(殆ど以前の記事からコピペ)
まず一般論を分解すると、”前件”と”後件”に分けられます。
再びさっきの例で言うと
一般論:太陽が東に見える時は、午前だ。
この場合の前件は、「太陽が東に見える」
後件は、「午前」
となります。
AならばBの「A」が前件となり、「B」が後件となります。
ここで注意しないといけないのは、AならばBが成り立っても、BならばAは成り立たないという事です。
これを間違えると、前件否定、後件肯定に繋がります。
一般論:太陽が東に見える時は、午前だ。
状況:現在、太陽は東に見えない。
↓これらから推測
結論:現在、午前ではない。
これが前件否定になります。
「太陽が東に見え"ない"」というように前件が否定されてるので、前件否定となります。
これの何がおかしいかというと、太陽が東に見えないからと言って午前では無いとは限らないからです。
深夜1時だって午前です。
厳密に言えば、観測地点から北極と南極を通る経線で地球を半分こしたと考えたとき、現在が午前なら太陽は観測地点から東にあると言えますが、観測出来るか出来ないかの話なら日が昇っていないと出来ないので、前件否定は成り立ちません。
次に後件肯定を見ていきます。
一般論:太陽が東に見える時は、午前だ。
状況:現在、午前だ。
↓これらから推測
結論:現在、太陽は東に見える。
これが後件肯定ですが、これも誤謬となります。
理由はさっきと同じで、午前だからって太陽が東に見えるとは限らないからです。
あくまで、仮説の一つとして扱うなら”アブダクション”として成立しますが、断定的に論じると誤謬になります。
前件否定、後件肯定が成り立つのは前件と後件を入れ替えても成立する場合のみです。
そうでないなら成り立つのは、
一般論:太陽が東に見える時は、午前だ。
状況:現在、太陽は東に見える。
↓これらから推測
結論:現在、午前である。
のような”前件肯定”と、
一般論:太陽が東に見える時は、午前だ。
状況:現在、午前ではない。
↓これらから推測
結論:現在、太陽は東に見えない。
のような”後件否定”のみとなります。
以上、以前の記事のコピペでした。
自己責任論とアブダクション
さてここまでアブダクションについて説明してきましたが、要するに実際起こった事件の過程又は原因を推測する時に使う仮説論証法がアブダクションという事になります。
そして、それらを推理するにあたって必要なのは原理原則や規範、一般論といった理論になります。
ところで、世の中の事件や事故のニュースを見たとき、被害者に原因があるのでは無いか?とか被害者側が悪いのでは?などのように反射的に被害者の過失を疑う事はありませんか?
この考えに至る原因は自己責任論によるもので、因果応報・自業自得、善い行いには良い結果が、悪い行いには悪い結果が付いてくるという考え方が、被害者非難に繋がることがあります。
要は、事件や事故という結果を、自己責任論という一般論に当てはめ、アブダクション的に推測し、その一つの仮説のみで論じてしまう事がしばしば起こっているわけです。
一般論:悪い事をすると、悪いことが起こる
事象:悪いことが起きた
↓これらから推測
推測:悪いことをした
こういう風に推測しているわけです。
中には、推測ではなく断定的な物言いで被害者を責めている輩もいますが、これは完全に後件肯定で理屈としておかしな事を言ってることになります。
よく聞く自己責任論の具体例を出すと、
・いじめは、いじめられる方に原因がある
・強姦されたのは、夜中に出歩いていたからだ
・どーせスピードの出し過ぎで事故ったんだろ
・生活保護受給者は、皆怠惰でだらしない人間だ
・生活が苦しいのは、本人の努力不足
こういった話、聞いたことはありませんか?
勿論これらが正しい場合もありますが、当てはまらない場合もあります。
アブダクションはあくまで仮説論証であり、原因を確定するものではありませんので、自己責任論が当てはまらない可能性だってあるわけです。
世の中には"因果応報"と言う言葉と共に"不可抗力"という言葉だって存在しているわけです。
しかし人間には”帰属バイアス”というものが存在し、物事のエラーについてはっきりとした理由を求めずにはいられない性質があります。
その中で推測される原因等は、理屈として正確でないことも多いですが、僕たちは不可抗力ではない何か、または誰かが原因であることを求めてしまい、結果自己責任論という名の被害者非難に行き着いてしまうのです。
自己責任論による仮説を被害者に対して振りかざす、又は決め付けで被害者を責めるのは、アブダクションの乱用ないし自己責任論の暴力と言わざる負えないと僕は思います。
第三者という立場なら、感情的にならず、アブダクション的な推測による仮説を複数持ち、様々な視点から物事を考えると共に、被害者に対して配慮をするべきと思います。
自己責任論という誤謬
そもそもですが、前提として用いる自己責任論・因果応報は果たして正しいのでしょうか?
当たり前ですが、世の中は理不尽で努力なんて報われない事の方が多く、自分が悪いわけでもないのに頭を下げ、理屈よりも感情で政治や経済が動き、生まれによってある程度人生が決まってしまう・・・
これが現実で、自己責任や因果応報なんて言葉で説明出来る程、世の中公正には出来ていません。
しかし人間は、自分の行いに対し正当な結果が返ってくると思っていますし、そうならなかった場合は憤慨してしまいます。
これには、”公正世界仮説”という認知バイアス(思い込み)が関係しています。
公正世界仮説(こうせいせかいかせつ、just-world hypothesis)または公正世界誤謬(こうせいせかいごびゅう、just-world fallacy)とは、人間の行いに対して公正な結果が返ってくるものである、と考える認知バイアス、もしくは思い込みである。また、この世界は公正世界である、という信念を公正世界信念(belief in a just world)という。
飛ばして概要のページより引用
「公正世界」であるこの世界においては、全ての正義は最終的には報われ、全ての罪は最終的には罰せられる、と考える。言い換えると、公正世界仮説を信じる者は、起こった出来事が、公正・不公正のバランスを復元しようとする大宇宙の力が働いた「結果」であると考え、またこれから起こることもそうであることを期待する傾向がある。この信念は一般的に大宇宙の正義、運命、摂理、因果、均衡、秩序、などが存在するという考えを暗に含む。公正世界信念の保持者は、「こんなことをすれば罰が当たる」「正義は勝つ」など公正世界仮説に基づいて未来が予測できる、あるいは「努力すれば(自分は)報われる」「信じる者(自分)は救われる」など未来を自らコントロールできると考え、未来に対してポジティブなイメージを持つ。一方、公正世界信念の保持者が「自らの公正世界信念に反して、一見何の罪もない人々が苦しむ」という不合理な現実に出会った場合、「現実は非情である」とは考えず、自らの公正世界信念に即して現実を合理的に解釈して「実は犠牲者本人に何らかの苦しむだけの理由があるのだ」という結論に達する非形式的誤謬をおこし、「暴漢に襲われたのは夜中に出歩いていた自分が悪い」「我欲に天罰が下った」「ハンセン病に罹患するのは宿業を負ったものが輪廻転生したからだ」「カーストが低いのは前世でカルマが悪かったからだ」など、加害者や天災よりも被害者や犠牲者の「罪」を非難する犠牲者非難をしがちである。例えば「自業自得」「因果応報」「人を呪わば穴二つ」「自分で蒔いた種」など、日本のことわざにもこの公正世界仮説が反映された言葉がある。
引用終了
ここに書いてある通りです。
結局、自己責任論だけでは世界は語れないということです。
しかし、誤解してはいけないのは因果応報は存在しないということではありません。
普通に自分の行いによって幸福がもたらされたり、逆に面倒ごとを引き受ける羽目になることだっていくらでもあります。
ただ、因果応報・自己責任は絶対ではなく、時と場合によるというだけです。
そして、この公正世界仮説は決して悪い側面だけではありません。
近年行われた研究では、被害者非難を通じた公正世界仮説の信念を維持することは、短期的な小額報酬を無視して長期的な高額報酬を選好することと関連し、長期的な目標の維持を可能にしている。また、公正世界仮説を信じている人は、生活満足度と幸福度が高まり、抑うつ的な感情が減少している。公正世界仮説が維持されることで、世界は安定と秩序ある環境であるという認識がもたらされ、心理的なバランスや長期目標、幸福感を維持する基盤となっているという指摘もある。そして公正世界信念と利他行動の間には正の相関関係があるとされ、ボランティアや身体障害者に対して積極的な援助行動や貧困者の映像を先行刺激として与えた場合、その人の寄付額が多いことも報告されている。実際に2013年に発表されたメタ分析によると、公正世界仮説はビッグファイブ性格特性の神経症的傾向と負に関連し、外向性と協調性と正に関連していることがわかっている。
引用終了
要するに、世の中を理不尽であるとは考えないため、長期的な目標を立てて努力することができ、精神の安定を図ることができるということです。
努力は報われないなんて考えながらモチベーションを維持するのは極めて難しく、明日突然不幸に見舞われるかもしれないなんて考えながら生活するのは精神的に苦しいため、公正世界仮説はそういった面で非常に有効です。
しかし、公正世界信念が強い人間は、公正世界仮説に基づいてなんでも思考してしまうため、結果被害者非難に繋がってしまうことがあります。
そして公正世界仮説は帰属バイアスと結びつきが強く、物事の原因を因果応報というシンプルな理屈で説明できてしまうため、例え間違っていたとしてもそれ以外の仮説を考えなくなってしまうのです。
公正世界仮説には良い面もあり、一概に否定できるものではありませんが、世の中に絶対はないということは、頭の片隅に置いておいた方がいいと思います。
まとめ
アブダクションだのなんだのと、まどろっこしい説明をしましたが、結局何が言いたいかというと、上っ面な情報や浅い思考で、被害者に自己責任論を押し付けるのは止めましょう、ってことです。
自己責任論の話だけではないですけど、大して情報も集めず分かったような気になって感情的に物事を論じる人が、世の中あまりにも多いように感じます。
アブダクションはあくまで、結果から原因を推測するものであり、それが正しいとは限りません。
それ故に、一つの物事に対して複数の仮説を立てて、多角的に考える必要があると思います。
そう考えると、断定できる物事なんてそう無いということが分かると思います。。
また仮説と認識した上でも、確証がないなら下手に口にするべきではないものもたくさんあります。
そこを履き違えるのなら、”アブダクションと自己責任論の乱用”としか言えません。
世の中は、自分が思っている以上に複雑なため、
何事も過信と鵜呑みは禁物に。
まあ結局いつもと似た様な結論とはなりますが、リテラシーってものを考えたときにそこが重要だと思っているので、反復してしまいますね(笑)
そんな訳で、今回は以上!!