てきとうに駄弁る

ふと興味が湧いたことを深堀する

信念について考えてみた

 

どうもお久しぶりです。

 

パソコンは相変わらず壊れたまま放置していて、全然ブログ書く気力が湧かなかったので、期間がとても空いてしまいました。

 

仕方ないので暫くはスマホで書くしかありませんね…笑

 

ということで、今回は「信念」って言葉について考えてみたいと思います。

 

今まで僕が書いてきたブログの傾向的に、タイトルにしてる時点で「信念」について批判的であろうと想像つく人もいると思います。

 

そして、この「信念」が盲目的に礼賛される風潮も個人的に嫌いです。

 

まぁ、「信念」ってものが嫌いだっていう信念でブログ書いてる時点で矛盾も甚だしいですが、そこはまあ、ご容赦ください。

 

ということで、つらつらと書いていこうと思うので良かったら読んでやって下さい。

 

目次

 

 

 

信念とは

 

コトバンク 信念

日本大百科全書(ニッポニカ) 「信念」の意味・わかりやすい解説より引用

 

日常会話において「信念の人」とか「あの人は信念がない」といったように使われるとおり、ある事柄についてもたれる確固として動揺しない認識ないし考えをいう。心理学では、個人が接触している世界のある側面に対する感情、知覚、認識、評価、動機、行動傾向などの心理作用の総合的で持続的な構えを「態度」という概念で考えるが、信念はその認知的要素の部分ないし側面を形成しているといえよう。知覚や認識は、いろいろな経験の構造化、再構造化に基づくものであるから、その持続的に安定した産物である信念もまた構造化されており、信念の対象である事物や存在の種々な側面についての認知が首尾一貫して組み込まれている。したがって、これに矛盾する情報や経験に対しては、強い反発や抵抗を示すことがある。客観的な裏づけがなく保持される信念の極端なものは、固定観念や迷信につながるおそれがある。

信念(しんねん)とは? 意味や使い方 - コトバンク

 

すごい、コトバンクに言いたいことが大体書いてあった笑

 

まあ要するに、自分の中でこれが正しいと信じて揺るがない理念、考えや正義ってところですね。

 

前にも話した通り、事実認識において理論負荷性というものが存在し、知覚または理解に影響を及ぼすというものがありましたが、これは理論のみならず信念の影響も受けることがあります。

 

信念というものを軸に、認識・解釈・行動が一貫しており、矛盾が存在してないように見えるため世間では素晴らしいものとされることが多いように感じます。

 

しかし、コトバンクにも書いてある通り、

固定観念や迷信に繫がるおそれがある。

こういったリスクを孕んでいます。

 

 

信念の危険性

 

先にも書いた通り、

固定観念や迷信に繫がるおそれがある。」

これに尽きると思いますが、もう少し噛み砕いて考えていこうと思います。

 

信念というのは、自分の中の思考や行動の軸であり、信念に基づいて様々な判断を下します。

信念という軸があるおかげで、自分の行動に一貫性を持たせる事ができ、周りから信用を得ることに繋がります。

 

しかし、本当にその信念はあらゆる場面で適切なのでしょうか?

 

人間には、"認知的不協和"というものが存在する為、信念にそぐわない情報は無視、又は攻撃してしまう可能性があります。

また、"確証バイアス"というものが存在し、自分の信念にとって都合のいい情報ばかりを集めてしまう危険性があります。

 

その信念が正しい場合はこれらは問題にはなりませんが、もし間違っていた場合は後戻り出来なくなってしまい、拳を振り上げてしまう可能性かあります。

信念とは、強い意志と感情によって強固に維持されている為、もし間違っていたとしても簡単には曲げられませんし、信念の否定は"認知的不協和"に直接繫がるため、理性的に自分の間違いを認めるよりも先に、激情に押し流されて詭弁を振り撒き他者を攻撃してしまうことが起こり得るわけです。

 

また、信念による"確証バイアス"によって集まるのは都合いい「情報」のみならず、都合のいい「人間」までも集めてしまいます。

同じ信念を持つもの同士で集まり、やがて集団を形成し、その集団内で更に信念を強化し反対意見を排外していくことで、先鋭化された集団が出来上がる可能性があります。

そして、その中で意思決定を行うことより、極端な結論に行き着き易くなる(集団極性化)事が起こり、犯罪・テロを犯すリスクがあります。(リスキーシフト)

この話は、仮定に仮定を重ねていくようなものなので極端に思えるかもしれませんが、マルチやカルト宗教、過激な活動家などはこういった構造を持っている事もまた事実です。

 

目的を果たすために信念が必要な場面もあると思いますが、固執すると間違ったまま突っ走る危険性があるということです。

 

 

信念が好まれる理由についての推測

 

先程も少し触れましたが、信念を軸に行動してる人間は矛盾が少なく信用されやすい特徴があります。

矛盾が少ないと、一度口にした約束を守るであろうと人は思うので、そこに安心感を覚えるからです。

 

また、"認知的不協和"理論が示す通り、人は矛盾やダブルスタンダードを嫌います。

二分法的に考えると、矛盾が少ないと好まれるということになります。

 

これが僕の考える、信念が好まれる理由です。

 

それを前提に考えると、

・信念がある人間は約束はしっかりと守り

・仕事に妥協を許さずキッチリとこなし

・間違ってると思ったことはハッキリと口に出す

こういった明瞭な人間性が想起され、信念は素晴らしいものというイメージが出来上がります。

 

そうした人間には確かに憧れる部分もありますが、人間である以上間違いを犯すのは当たり前であり、その間違いが信念そのものを指している場合も多く存在するため、"過信"する気にはなれないというのが僕の感想です。

 

 

一貫性を求め過ぎない

 

信念が礼賛される一方で、矛盾やダブスタはやたら嫌われる傾向があります。

何度も言うように、人間である以上間違いを犯すのは当たり前であり、その度に考えを改めて無ければいけない事が多々あります。

また、昔の自分と今の自分では得てる知識も経験値も異なり、違ったより多くの視点で物事を考える為、この時にも矛盾は生じます。

更に言うと、日常の中でだって気付かない様な小さな矛盾だってありますし、自分自身が気づかないだでダブスタも存在し得ると思います。

 

人間は完璧でも完全無欠でも何でもない、それが当たり前であり、この先に完成されることもありません。

なので、他者にも自分にも一貫性を求め過ぎない事が重要だと思います。

 

勿論、ご都合主義のダブスタによって他人に迷惑を掛ける

"他人に厳しく、自分に甘く"

みたいな都合のいいダブスタは論外です。

 

しかし、他者の矛盾を指摘している自分自身は、果たしてそんなに立派な人間なのか?

こういった批判的目線を自分自身に向けることが大事になってくると思います。

 

結局、過信と鵜呑みは禁物に

行き着く落し所はここになります。

 

 

まとめ

 

ということで信念について色々と考えてみました。

何故こんなテーマにしたかと言うと、信念を礼賛し矛盾を過度に嫌う不寛容な空気に、嫌気を感じたからです。

というより、不寛容な連中はそんなに清廉潔白な素晴らしい人たちなのか、と不満を覚えたからです。

だからこそ、盲目的に「信念」って言葉を礼賛する風潮も嫌いなのです。

 

矛盾を受け入れる心構えが、寛容な社会へと繋がるのでは?と僕は考えます。

勿論、何かを遂げる為に目標を掲げ、そこに向けて努力する、そういった信念は必要だと思います。

 

 

僕の"信念"に賛同してくださる方はコメント下さい何でもします。

 

 

というわけで以上、またね!!