てきとうに駄弁る

ふと興味が湧いたことを深堀する

事実とは揺らがないものなのか

こんにちは。

 

はい、まあタイトルから察するに事実というものも、揺らぐものです。

 

というより、事実という情報は人間というフィルターを通じて伝達される為、そのフィルターのさじ加減によって揺らぎが生じます。

 

以前書いたこの話

真実とは何か?改めて考えてみた - てきとうに駄弁る

 

真実は事実という客観的で揺らがない事象を解釈したものだ、みたいな事を書きましたが、要は何かを考えるときにはまず事実をベースにする必要があります。

しかし、実際には事実は揺らがないものではないので、そこを忘れて前提に据えると間違いを起こす場合もあります。

 

なので、今回は事実という言葉について改めて考えていきたいと思うので、是非最後まで読んでいって下さい。

 

目次

 

 

 

事実とは

 

wikipedia事実より引用

事実(じじつ、ラテン語: factum、フランス語: fait、英: fact)とは、

 

・ことの真実。真実のことがら。本当にあったことがら。

 

・(哲学用語)もともと神によってなされたことを意味し、時間と空間の中に見出される実在的なできごとや存在のこと。

 

概説より

 

もともとは、神がしたこと、という意味である。まずラテン語のfacere(あるいはfacio)「する」「行う」という意味の動詞 があり、その過去分詞形factumが「(神によって)行われた」と形容詞的に用いられ、それが名詞化し「(神によって)行われたこと」を意味するようになったものである。フランス語のfaitも同様で、faire(する、行う)という動詞があり、その過去分詞形のfaitが名詞化したものである。英語のfactも15世紀にラテン語のfactumを語源として使われるようになったものである。「実在的なもの」とされるのであるため、幻想・虚構・可能性などと対立する

事実 - Wikipedia

 

だそうです。

哲学的な説明まで入ってきてとてもややこしいですが、基本的には憶測や解釈を除いた客観的で揺らがない事象と捉えたのでいいと思います。

 

哲学用語の方の事実の説明から、神という究極的な第三者によって行われた揺らがないと信じられているもの、なんて言う風にも解釈できる気がします。

物事を考えるとき、揺らがないものをベースとする必要があるため、その揺らがないを神という存在を用いて保証したのではないか、なんて推測してしまいます。

ということは、逆説的に神を用いず論理的に事実の客観性や絶対性を保証する事は出来ないのではないか、という風に思ってしまいます。

 

 

事実の理論負荷性

 

wikipedia帰納(枚挙的帰納法の欠点)より引用

 

事実の理論負荷性。ノーウッド・ラッセル・ハンソンによって提示された。その事実の成立を可能とする理論的文脈や社会的背景なしに、事実は存在し得ない。「思い込みや先入観のない事実」は存在しない、絶対的客観性はあり得ない、ということである。帰納の前提となる事実は、完全には信頼できないものである。

帰納 - Wikipedia

 

事象を観測する時、その事象を理解する為には何かしらの理論に当てはめて考えるため、その事実は観察者のバイアスを受けることになります。

 

事実が理論に先立つのではなく、理論や経験則、更には思い込みが前提にあり、その上に観測事実を積み上げるので、事実とは絶対的に揺らがないものとは言えないのです。

 

更には、そのバイアスを受けた事実を他者に伝達する際には、

 

  1. 説明者のバイアス
  2. 説明者の言語化能力
  3. 受け手の理解力
  4. 受け手のバイアス

 

この様に何重にもフィルターを通すことになる為、事実とされる情報に客観性なんてものは担保されていません。

 

だからこそ、過信と鵜呑みが禁物に

 

 

しかし、この理論を確立するおいても事実の観測を行っているはずですが、その事実は観測者のバイアスに影響されているという言うのが理論負荷性の為、この理論を確立するための事実には観測者のバイアスが掛かっている事になるので、理論負荷性は正しくないという矛盾が生じます。

 

まあ、結論としてはよく分からないってところにしか行き着かないですが、そういう見方もあるよね程度に留めておくのがいいと思います。

 

逆転クオリア

 

wikipedia逆転クオリアより引用

 

逆転クオリア(ぎゃくてんクオリア、英:Inverted qualia)は心の哲学で議論される思考実験の一つ。同じ物理的刺激に対し、異なる質的経験(クオリア)が体験されている可能性を考える思考実験である。逆転スペクトル(ぎゃくてんスペクトル、英:Inverted spectrum)とも呼ばれる。色覚の赤と緑が入れ替わっている例が代表的例として論じられるが、他の感覚様相(聴覚や痛覚)の場合でも論じられる。

逆転クオリア - Wikipedia

 

全員が赤と呼ぶ色を人それぞれ観測したとき、ある人にとっては緑に相当する色(そう見える)を、自分は赤と思い込んでいる、逆に他者は自分にとっての青を赤と呼称しているのではないか?

こういった哲学的な問いが逆転クオリアとなります。

 

人によって感覚機能に個体差がある為、質的経験(クオリア)は人それぞれ異なると考えているわけです。

同じ赤色を観測する時、それぞれ皆違ったように知覚しているのにも関わらず、それが赤だと刷り込まれた為に皆が赤だと言う、こんな仮説が前提にあります。

 

勿論この議論に答えはなく、確かめようもない話ではありますが、否定出来ないのも事実であり、事実の客観性などを揺るがすものにもなり得ます。

 

これをもう少し科学的な話に落とし込むなら、

色覚異常の人とそうでない人が観測する赤は違う」

これに関しては哲学的な問いでは無く、科学的に正しい話であるため、確実に事実の客観性を揺るがす話になります。

 

色覚異常の人がパイロットになろうと必死に努力し、いざ身体検査に臨んだとき、初めて自分が色覚異常だと発覚した。

こういった話は枚挙にいとまがない為、逆転クオリアは余計に否定しづらい話になります。

 

こうして考えると、純真無垢な事実なんて存在しない、少なくとも人間には観測できない、そう捉えることが出来てしまいます。

 

 

まとめ

 

とまあ事実について色々と疑いを掛けてみると、最終的には哲学的な話になってしまいますね。

 

哲学なんて知らん、そんな状態でこのテーマは正直キツかったので、安直にテーマにしたことを後悔してます。

 

ただまあ、当たり前とされていることや、目の前に見えるもの全て正しいとは限らない、そういう事が言いたいわけです。

疑い出したらきりが無いだろ、って思うかもしれませんが、疑った先に答えを求めるのでは無く、様々な可能性を考えておく、これが多角的にモノを見ることに繋がり、疑う事そのものが自ら考えることに繋がるのです。

 

結局のところ、過信と鵜呑みは禁物に

自分で考えトライ・アンド・エラーを繰り返す、今の時代こそこれが必要なのではと思います。

後、パソコンがぶっ壊れたので今回はいつも以上に編集が雑ですが許して下さい何でもします。

 

そんな訳で、以上!!

お疲れ様でした!